大規模災害に向かい合う日本社会のこれまで、そしてこれから

特集:CIDIR10周年記念シンポジウムー大規模災害に備える防災情報研究の新たな地平ー

片田敏孝
2019年3月1日

 日本の防災が混迷を深めている。ハード対策にもソフト対策にも限界がある。災害対策基本法に則った行政主導の防災にも限界がある。予知・予測にも限界がある。科学で解明し技術で制御しようとするこれまでのわが国の防災に、明らかな限界があることは認めざるを得ない。それがここ最近の大規模災害を経て、やっと国民にも、行政にも、学界にも理解されはじめた。
 そんななかにあって巨大災害想定が次々と公表され、国民は自助の必要性は感じつつも、それに対処する自助の具体が見えず不安を募らせている。国民は長年の行政主導の防災のなかで行政依存の防災に慣れ過ぎ、いわば災害過保護の状態のなかで自助の具体が見えず、そこに生じる行き場のない不安は、相変わらず行政への対応強化の要請へと向かわざるを得ない。これまで依存され続けてきた行政は、そこに国民の不安解消の本質は見当たらずとも、対応を放棄することはできず、思いつく限りの対策強化を重ね続ける。まさにわが国の防災は混迷状態にある。
 こんなわが国の防災に、今まさに必要なことはアドホックな対策の積み重ねではない。対策以前の問題として、ゼロリスクはあり得ない自然災害に対して、地域社会が、個人がどのように向かい合うべきかという防災の基本思想が必要とされているのではないだろうか。自然は時に荒ぶることが本質であり、そこに災害制御感の破綻が内包されることは自明のことである。ハード対策には必ず想定外力が必要であり、それを高めれば災害発生頻度は下がったとしても、時に超過外力が生じることは自明である。予知・予測とそれに基づく災害情報の精度向上は、災害対応を改善するにせよ万全ではあり得ない。しかし、科学で解明し技術で抑止する災害対応に邁進してきたわが国の防災は、災害頻度の低下と被害軽減に大きな成果を得る過程で、いつしか災害制御感を高め続け、自然には抗いきれないことを踏まえた謙虚さを忘れて、災害に対して傲慢な姿勢を強固なものとしていった。
 もとよりわが国は自然の恵み豊か、災い豊かな国である。自然の恵みには感謝し、荒ぶる自然には抗えないものとして、自然に対して謙虚な姿勢を貫いてきた。特に自然災害に対しては人知の及ばないものとして、八百万の神に祈りながら集落で助け合いながら暮らしてきた。しかし特に災害対策基本法制定以降は、近代的な土木技術により災害制御のレベルが上がることによって、災害頻度の低下と被害軽減が顕著となり、災害大国でありながら防災大国として先進国の体をなしてきた。この過程でわが国はハード対策への過信を顕著に高め、かつての自然に対する謙虚さを完全に失った。
 そんななかで生じた阪神・淡路大震災は、その奢りを認識させるものとなった。しかし、自然に対して謙虚であることの実像が見いだせないまま、そこでわが国の防災が向かった方向は、さらなる科学による解明と技術による抑制の強化であり、国民は被災者支援の強化であった。これによりわが国の防災のレベルは一層の向上を見たが、そこに防災の思想はみあたらず、単にレベルを上げるだけの防災は、東日本大震災による大津波によって最終的な破綻を突きつけられるに至った。
 災害大国であるわが国にあって、防災対応の強化によって災害頻度の低下と被害軽減を目指すことは、先進国にふさわしい社会的厚生水準を確保することにおいて必要なことである。しかし、それであっても自然には抗いきれないことは未来永劫、変わらない自然の原則である。そうであるなら、かつての日本がそうであったように、平時においては自然の恵みに感謝し、時に荒ぶるときには最大限の危機回避行動を主体的に取り、他者に自らの安全確保を委ねず、自らが自然に対峙して生きている謙虚さを忘れずにその地に生きる姿勢が求められるのではないだろうか。人為的防災対策による一定程度のリスク軽減には感謝しつつも、それに依存することなく、超過外力の存在を前提に地域の対応策を皆で考える地域のありようも求められよう。今、日本の防災に求められることは、自然は時に抗えないことを前提にした防災への回帰なのではないだろうか。