電算機の利活用で大変お世話になりました

特集:鷹野先生のご退職に寄せて

目黒公郎
2018年3月1日

 鷹野先生に最初にお会いしたのは今から三十年以上も前、私がまだ地震研究所で修士の院生をしているときである。CIDIRニュースレターの読者の皆さんの多くは、鷹野先生は地震学、特に緊急地震速報やIT強震計などを専門とする先生と認識されていると思うが、私にとっての鷹野先生は電算機の先生である。
 私が所属していた伯野元彦教授の研究室では、当時、粒状体シミュレーション(離散化モデルによるコンピュータミュレーションで破壊現象の解析に適した手法)を盛んに行っていた。修士の初めは、地震の破壊メカニズム、浸透理論や碁石モデルによるシミュレーションで、グーテンベルグ・リヒター式のb値の意味などの研究をしていたが、すぐに私も粒状体シミュレーションをすることになった。私の課題は連続体の破壊現象にこの手法を適用する研究であった。研究室の先輩であった故岩下和義氏(その後、埼玉大学教授)に手ほどきをうけながら、電算機づけの毎日を送っていた。当時、PCと言えばNECのPC-9800シリーズが最も人気で、これをMS-DOS環境で動かすのが一般的であった。そのMS-DOSに関する解説書の金字塔である書籍が、その名もずばり「MS-DOS (OSシリーズ、共立出版)」で、この著者の1人が鷹野先生、もう1人の共著者が同じく地震研の纐纈一起先生であった。この本は当時本格的な解説書がない中で、MS-DOSの内部構造を解き明かしながらユーザプログラムとそのインターフェースを詳しく解説するとともに、隠れたノウハウなども記載された優れものであった。
 また、当時はメインフレームと呼ばれる汎用大型計算機の時代で、地震研究所にはHITAC (HItachi Transister Automatic Computer)があった。大規模な計算にはHITACを使っていたが、このメインフレームに研究室のPCをつないでプログラムをつくったり、デバグをしたり、計算を走らせたりする際に活用していたプログラムが「Eterm」で、この開発者がやはり鷹野・纐纈の両氏であった。お2人の名前を知っているか否かは別として、このプログラムの恩恵を受けた研究者はものすごく多かった。私も当初は毎日10~12時間は電算室に閉じ籠っていた。しかし電算室ではコーヒーを飲みながら仕事もできないし、少し大きな声で話をしていると注意されるので、電算機室での仕事はエアコンがうれしい季節や時間のみにして、他は「Eterm」を使って研究室から仕事をするようになった。
 私は、修論でも博論でも、電算機(CPU)を湯水のように使った。当時は計算の規模で、「A~D」ジョブのクラス分けがしてあり、最大規模のDジョブはかなり慎重に取り扱われていた。しかし私は、伯野先生から、「電算機はいくら使ってもいい」と言われていたことをいいことに、Dジョブの連続投入を日課とし、他の多くのユーザーにご迷惑をかけていた。私が1991年に博士課程を終え、生産技術研究所の助手として地震研を離れる時に、鷹野先生にかけられた言葉を今も思い出す。「生研に行っても、地震研のHITACを使ってよ。稼働率が落ちないように。」それほど使っていたのだ。ただし、使ったCPUに見合うだけの成果を挙げていたかどうかには、全く自信がない。
 学生時代、毎日「Eterm」を使っていた私は、その機能を熟知していた。しかし今回、この原稿を書くに際して、鷹野先生から「東京大学大型計算機ニュース」に先生が書かれた「Eterm」関連の資料を送ってもらって読んだが、各ファンクションキーの意味などは、全て完全に忘れていた。記憶力の悪さは、ひどいものであるが、こんな私でも、修士論文や博士論文が書くことが出来たのは、鷹野先生、纐纈先生による著書「MS-DOS」やプログラム「Eterm」があったからである。本当に感謝しています。
 最後に、著書「MS-DOS」は大ベストセラーに、「Eterm」は全国大型計算機センター長会議プログラム創造賞(1996年)に輝いたことをお伝えしておく。