大規模水害時の広域避難の課題
特集:シンポジウム「大規模水害と防災気象情報」を振り返って
特任教授
片田敏孝
2025年6月1日
本講演は、大規模水害時の「広域避難」をテーマに、近年の制度改正と現実的課題、そして防災の思想的転換を論じたものである。
令和3 年の災害対策基本法改正により、広域避難に関する法的枠組みが大きく変化した。改正の要点は、①災害の「発生のおそれ」段階で災害対策本部を立ち上げ、②周辺市町村に対して広域避難受け入れの義務化、③都道府県知事による交通機関への輸送要請権限の明示、などである。これにより、避難はもはや一自治体だけの課題ではなく、国・都道府県・周辺自治体が一体となって取り組む体制が求められるようになった。
広域避難について多く議論されているわけではないが、特に深刻な対象地域として注目されるのが東京・江東5 区(ゼロメートル地帯)である。256 万人の住民が水没リスクにさらされており、想定され
る避難には最低3 日を要し、交通混乱や情報発信の遅れが大きな課題となる。この問題を受けて、江戸川区は「ここにいてはダメです」と記載された率直なハザードマップを公表した。一部では反発もあっ
たが、最終的には現実的な危機感の共有へとつながった。また、災害の数日前から段階的に避難検討の情報を出すことで、住民の早期行動を促す取り組みも行われている。
一方で、現行の制度や社会構造では256 万人の全員を広域避難させることは不可能であり、特に条件の厳しい広域避難対象者74 万人に対しても15 万人分しか避難所は確保できていない。こうした限界
を前提に、従来の「行政がすべてサービスとして提供する」発想から、「行政が最大限サポートするが、判断と行動は住民自身が行う」という新しい発想への転換が提唱されている。この転換は、西日本豪雨を契機に中央防災会議で本格的に議論が始まり、「行政中心の防災から、住民が自ら動く形の防災への移行」が打ち出された。行政は、住民を全力で支援するが、避難の判断や行動は住民自身が主体となって行う必要がある。
また、情報提供に関しても課題がある。たとえば警戒レベル5(緊急安全確保)は、行政の「お手上げ宣言」であり、最善の判断を自ら行うことを求めるものである。これは極めて高度な自己判断が求めら
れ、住民側に相応のリテラシーと意識が必要である。広域避難はそれに要する時間を考えると台風のルートが定まり切らない場合にあっても、高潮の可能性がある場合は早い段階から情報を淡々と出すことが必要となる。この場合においても住民には広域避難の判断が求められるが、現状では広域避難するよう行動を指南されたと受け取られかねない。行政は早い段階での広域避難の必要性を淡々と訴求し、それを受けた住民は自ら判断した結果として、広域避難した人であれ、留まった人であれ、行政は最大限のサポートを行うことになる。
このように日本の防災は「行政サービス型」から「行政サポート型」へと変わるべきである。要配慮者への支援については最優先となるが、すべての住民は自ら判断して行動する意識を持つことが原則として必要である。
防災の基本構造は「助ける/助けられる」という主体客体の構造から脱却し、主客未分の「助かる」社会を共に築くといった中動態的アプローチへと変革することが求められている。対処の処方箋を示すだけではなく、「駄目なものは駄目」と伝える誠実な情報発信と、住民の行動を支える共助の構築が今後の防災の核心となる。
