1964年新潟地震と災害放送
特集:日本海側の地震津波の被害と教訓 ⑵
松本大学教授
入江さやか
2024年9月1日
新潟地震で生まれた「災害放送の原型」
1964年6月16日に新潟地震が発生してから今年でちょうど60年になる。初代・日本災害情報学会会長の故・廣井脩先生は、新潟地震を「防災機関としての放送局の機能が認識された」「ラジオは被災地向け、テレビは被災地外へという役割分担が確立した」とし、現在の災害放送の原型が形成された災害と位置付けている2)。1959年の伊勢湾台風を契機に制定された災害対策基本法では、NHKは国の指定公共機関に、民放は都道府県の指定公共機関となり、防災対策の責務を負うことになった。同法は1962年に施行され、その2年後に起きたのが新潟地震である。
ラジオが伝えた津波警報
午後1時1分の地震発生直後から新潟市内は停電し、電話などあらゆる通信手段は機能せず、津波や信濃川の堤防決壊で道路は浸水し、鉄道などの交通機関も壊滅状態となった。例えば、午後1時15分に気象庁本庁が発表した津波警報は、無線によって午後1時33分に新潟地方気象台に伝達されたが、そこから先の通信手段がない。気象台の職員は徒歩で新潟県庁に向かい、県の災害対策本部に津波警報が伝えられたのは午後2時15分であった。このような状況の中で、住民の情報入手はトランジスターラジオだけが頼りであった。
NHKは午後1時3分からのローカルニュースのためにスタジオ入りしていたアナウンサーがそのまま地震発生を伝えた。NHK放送博物館に保存されている発災直後の手書きの放送原稿をみると「途中でありますが、ニュース速報をお伝えします」という走り書きの後に地震の第一報を伝え、原稿の後半には「気象台から津波警報が出ています。御注意ください」との追記がある。また、別のアナウンサーは携帯無線を持ち、津波の濁流の中を泳いで新潟地方気象台に向かった。気象台の観測塔の上に避難していた台長へのインタビューを生中継し、津波の観測状況や今後の見通しを伝えた。気象台や県庁から県内各地への情報伝達が途絶している中で、こうした放送は沿岸部の住民の避難に役立っていた。新潟県が沿岸部の30の自治体を調査したところ、19の自治体が津波警報の発表をラジオやテレビで知り、住民に避難を指示したり、警戒を呼びかけたりしていた。
屋上カメラと安否放送
液状化現象や浸水のために、新潟市内の移動がままならない中、地元民放の「新潟放送(BSN)」とNHKは、被災地からの映像の発信を競い、屋上にテレビカメラを引き上げ、信濃川を遡上する津波や石油タンクの火災などの映像を撮影して被災地の状況を生々しく伝えた(図–1)。これが、現在の災害報道に欠かせない高所の「ロボットカメラ(お天気カメラ)」の先鞭となる。
また、発災当日からNHKとBSNは、「消息放送」、今でいう「安否放送」も展開した。交通機関も通信手段も途絶した状況下で、家族などの安否放送を求める被災者が放送局の受付に列を作った。
後日、NHK新潟局のデスクは「事実このときのラジオが果たした役割は、本来の客観的報道の媒体にとどまらず、民心の恐怖と不安をおさえる役割と、さらに避難の指示や尋ね人放送などにおいて行政面の指導的役割まで果たしている」と語っている3)。このような意識は、新潟地震以前の災害報道ではみられなかったものである。新潟地震は、放送局が「報道機関」と「指定公共機関」の2つの役割を担うことを自覚した災害となったといえよう。
〔引用文献〕1)入江さやか(2022),昭和39年新潟地震-放送原稿とソノシートで振り返る災害報道―,放送研究と調査2022年4月号,日本放送出版協会2)廣井脩(1996),災害放送の歴史的展開,放送学研究No.46,日本放送出版協会3)日本放送協会(1964),特集・死斗!六月十六日の放送局,放送文化1964年8月号,日本放送出版協会