被害想定を報じる側が考えること
特集:被害想定とは何か(後編)
朝日新聞 論説委員
黒沢大陸
2024年6月1日
被害想定も経済効果のように数字を調整できるから背景や意図を考えるべきだ。死者数や被害額の数字はインパクトがあり、大きく報じられる。そんな報道を繰り返してきて痛感することだ。
かつては、被害想定はあまり作られず、大きく報道もされなかった。研究者の試算結果の原稿を書いても、「たられば」の話と一蹴され没になった。状況が変わったのは、2001 年の省庁再編後である。中央防災会議は、首相が議長を務める四つの重要政策会議のひとつと位置づけられた。存在感の発揮を求められ、事務局の内閣府は東海、東南海、南海地震の被害想定づくりに着手した。
担当記者として取材に追われた。各社とも事前に数字をつかみ特報しようと、「抜き合い」になった。役所で「震源域を設定しても過去の地震の揺れと整合性がとれず調整している」と説明されたのを思い出す。そんな途中段階の数字も報じられ、振り回された。最終結果も科学的と説明できる範囲の仮定の数字であり、想定には幅があるからひとつの数字に意味はないと承知しつつも、最悪の数字が大見出しになり一人歩きした。
再び被害想定が大きく注目された東日本大震災後。東北沖でのマグニチュード(M)9 は、地震調査研究推進本部が予測できておらず、次の想定外を防ごうと政府の被害想定も見直された。最初に着手された南海トラフは、おおかたの予想通りM9 の地震が想定された。「想定外恐怖症」を感じた。死者32 万人、津波34m はインパクトがあった。震源域を決めた理由を説明され、理屈は立つと思えたが、研究者からは「M9 ありき」「拡大しすぎ」、逆に「沖縄の沖まで一緒に地震が起きないと言えるのか」との声もあった。
その後、想定された相模トラフは、M9 の数字はなく、関東大震災級のM8 も計算されたものの、「今後100 年に起きる可能性はほとんどない」とされ、M7 の「首都直下地震」が主に防災対策を立てる地震となった。M8 が当面は起きないことも仮説に過ぎない。安全側で考えるならば最大級を主眼とすべきだが、そうはならなかった。南海トラフの衝撃が強すぎ、当時、政財界から日本が危険な国だと思われ、海外からの投資への悪影響が生じることを懸念する声もあがった。
被害想定を報じるメディアの責務は、わかりやすく伝えることと、課題や問題を指摘することだ。前者はインフォグラフィックを駆使するなど各社とも工夫した。後者は、備えるうえでの課題を探るために現場へ出向き自治体や住民の声も集めて伝えたが、想定そのものの妥当性は十分に検証できただろうか。
南海トラフの想定では、浜岡原発にも関心が集まった。だが、被害想定に原発事故はない。鉄道は「人的被害が発生する」と言及されながら数値化されていない。1,300 人を乗せた新幹線が長時間止まったままになれば地元自治体への影響も避けられまいが、それも想定にない。記者会見で質しても、原発事故は担当外、鉄道は過去のデータがなく定量化できない、などとかわされた。想定には限界があり、想定する範囲には意図がある。
想定された被害を減らすために耐震化や防火対策が進められ、国土強靱化の予算も投入される。政府は2019 年、南海トラフの最大の死者想定が32 万人から23 万人に減ったとの試算を発表した。建物の建て替え・改修が進んだほか、津波に対する住民の避難意識の向上などを踏まえた再計算という。努力が実を結んだと素直に受け止めていいのか。数字はさじ加減で変わる。成果のアピールとも、相模トラフのような揺り戻しとも感じられた。
被害想定は、行政や企業が災害対策の進める参考データとして意味があるだろう。では、住民はどう受け止めたらいいのか。現場で戸惑っている人々を取材してきた。住民らに資料の読み込みを求めるのは無理がある。多くの人は発表や定説をうのみにせずに考える訓練も受けていない。様々な被害の定量化で、災害の想定は万全だと受け取られないかも心配だ。被害想定は住民の災害対策を促す情報としては限界がある。
しっかりとした防災担当者がいる自治体や企業ではなく、一般の住民に対しては、被害想定も防災情報も発信する側の論理が強すぎ、受け手側の論理が後回しにされていると感じる。努力しなければ理解できない情報の浸透が難しいのは、南海トラフの「臨時情報」でも経験済みだ。行政が発表する内容をわかりやすく伝えるのはメディアの役割と言われるかも知れないが、それは仕事の一部、むしろ課題や問題の追及こそジャーナリズムに求められる役割だ。行政や学者と同じ視座では責任を果たせない。
いまの研究成果を「生かそう」という気持ちはわかる。ただ、そのまま情報を作って住民に学習してもらうのでなく、学ばなくても理解できる情報の模索、自然に住民の災害対策を促す研究を期待している。