金井清先生の思い出(1)

センター長
目黒公郎
2024年3月1日

 

 私は大学院時代を地震研究所(以下では震研)で過ごした。震研には月例の研究発表会(これを談話会と呼ぶ)があり、大学院生の私もこれに出席し、他の研究者の研究発表をよく聞いていた。談話会に何度か出席して気づいたことがある。いつも最前列に座って、熱心に研究発表を聞いておられるお爺さんが何人かおられた。このお爺さんの一人が、当時80 歳くらいの金井清先生であった。先生は談話会の後には必ず、6 部(震研の中の工学系の先生方のグループ名)の先生方の部屋で、お酒を飲みながら談
話されるのだが、私もある時(南忠男先生の研究室だったと思うが)、この会にご相伴に預かることになった。そこで、このお爺さんが金井清先生であることを初めて知った。大変失礼な話だが、私は金井先生は疾うの昔に鬼籍に入られていると思っていた。震研の研究報告書である彙報に、1930 年代から多くの論文を発表されていることは知っていたので、その時点ですでに55 年は経っていたからだ。その金井先生に直にお会いし、一緒に酒を飲みながら、話もさせていただいたのだ。
 私にとって、その日は特別な日になった。その後も、談話会の後に6部の先生の部屋で必ず再開される酒盛りに参加し、お話をさせていただくことが私のルーティーンになった。金井先生のお話はいつもとても勉強になるだけでなく、とにかく楽しかった。金井先生は、私のような若造に対しても、今日の談話会での発表についてどう思ったか、他の考えはないだろうか、などの質問をされる。私も生意気に、先生に質問した。先生は即座に答えられないことに対しては、「目黒君、次回までの宿題だ」とおっしゃって、次回にはちゃんと答えてくださった。私は感動した。私が研究者の道を選んだ理由はいくつかあるが、その主要な一つが金井先生との出会いである。金井先生からは実に様々なお話を伺った。ゆえに、書きたいことはたくさんあるが、今回はその中からほんの一部を紹介する。高齢の金井先生と若年であるが記憶力の衰えてきた私の記憶の相乗効果で、一部には正確ではない部分があるかもしれないが、それはご容赦願いたい。
 先生は、1907(M40)年に広島市でお生まれになった。運動神経が抜群で、しかもとても賢かったそうだ。地元の優秀な子供たちが学ぶ広島県立広島第一中学校に入るが、お父様を早く亡されたので、友人たちが地元を離れて上級学校に進学する中、広島に残り1928(S3)年に広島高等工業学校電気工学科を卒業された。その後は同校で実験助手されていたそうだ。そんな金井先生を不憫に思った地元の同級生で東京帝国大学に進学していた友人が、地震研究所の妹沢克惟教授が研究をサポートする若手を
求めているという話を聞き、「郷里の友人で金井清というものがいる。家庭の事情で広島にいるが優秀な男なのでぜひ会って欲しい」と頼み込み、試験を受けることになったそうだ。
 金井先生は1931(S6)年にはるばる上京して震研に行き、妹沢先生の試験を受けた。数学や物理の問題を出されたそうだ。それを別室で一生懸命に回答したという。その後、妹沢先生が来られて答案用紙を持っていかれ、その後に面接をされたそうだ。金井先生はとても心配だったそうだが、妹沢先生からの回答は、「君の下宿を用意したので、明日から勤務するように」というものだったという。金井先生としては、まさか、そのまま仕事をすることになるとは思っていなかったが、とにかく言われるままに翌日から勤務を始めたそうだ。先生の口癖に「これはfact だよ」というものがあるが、この話をされるとき、先生はいつも「これはfact だよ」とおっしゃっていた。学術に飢えていた金井先生は、水を得た魚のごとく、がむしゃらに勉強し研究に没頭されたという。文献検索すると、妹沢先生に採用された少し後から、震研の彙報に毎年10 数編の論文(そのほとんどが英文)を書かれている。当時の他の研究者と比較して抜きんでて多い。日本が戦争に向かい、特に1941(S16)年に太平洋戦争に突入すると、発表論文数は急激に減る。研究論文、特に敵国語の英語での発表は軍の規制を受けたらしい。
 金井先生は被害地震が起こると、その現地調査を精力的に実施された。1941(S16)年に長野県北部で発生した長沼地震の詳細な調査報告が震研彙報に載っている。太平洋戦争から第二次世界大戦で敗戦するまでの期間、わが国には繰り返し被害地震が発生している。1944(S19)年の東南海地震と1945(S20)年の三河地震に関しても、とても詳しく調査されたという。しかしこれらの調査結果をまとめる前の1945(S20)年の8 月6 日に広島に新型爆弾が投下された。この時先生は東京におられたそうだが、広島出身の先生は地の利もあって、学術研究会議の要請で急遽現地入りし、新型爆弾の威力を調査された。紙面の制約から調査内容は割愛するが、金井先生はこの調査で被爆され、被爆者手帳を持たれることになった。この調査で震研を留守にしている間に8 月15 日の終戦を迎え、金井先生が調査された記録者資料は、当局の指示を受けた震研の職員により、すべて焼却されてしまったという。金井先生はお酒の席で、何度かこのお話を私にしてくださったが、いつも「とても無念だった」とおっしゃっていた。