南海トラフ地震に対する防災行動を誘発する被害想定

特集:被害想定とは何か(前編)


名古屋大学 名誉教授
福和伸夫
2024年3月1日

 
 中央防災会議の下に設置された「南海トラフ巨大地震対策検討ワーキン ググループ」で、南海トラフ巨大地震対策の見直し作業が 10 年ぶりに行 われている。その一環で、新たな被害想定も実施中である。被害想定の目 的は 2 つある。一つは、この 10 年間の防災対策効果を検証するためのフォ ローアップであり、10 年前の被害想定と同じ条件の下、建物耐震化や津 波避難タワー整備などの効果を定量的に評価することを目指している。も う一つは、少子高齢化やデジタル化など、この 10 年間の社会変化(図参 照)や新たな知見を反映した被害想定を行い今後の防災対策の根拠とする ことにある。この検討結果に基づいて、中央防災会議において南海トラフ 地震防災対策推進基本計画が見直される予定である。
 メディアでは被害想定の数字が注目されがちだが、被害想定は目的では なく、災害被害の軽減対策を立案するための手段であり、アウトプットの 数量ではなくアウトカムである対策に関心を持ってもらいたい。被害想定 は様々な仮定の下で行われるものであり、結果には相当の幅がある。この ため数字が一人歩きすることは避けたい。地震による被害を生み出す要因 には「誘因」と「素因」がある。誘因である震源域での破壊現象、自然素 因である地形・地盤・気候、社会素因である人口・建物・施設・インフラ・対応資源などが関係する。これらを適切にモデル化し、様々な解析手法を 用いて、被害を予測する。地震の震源モデルについては、東日本大震災以 降、「想定外」を無くすため最大クラスの地震を対象にするようになり、 南海トラフ地震でも、M 9.0 の震源モデルが採用されている。これは、 過去に起きてきた宝永、安政、昭和の地震と比べて遥かに大きな地震であ り、南海トラフでの平均的な地震像とは異なる。また、震源モデルが同じ でも、震源断層の破壊の仕方や、地下構造、地形などの自然素因によって、 揺れ方や液状化、地盤災害、津波高などのハザードは変動する。国の被害 想定は被害の全体像をマクロに評価するという立場で行っており、地域に よるデータの精粗の違いもあって、地盤構造や地形変化の解像度は余り高 くない。
 また、予想被害量は、社会素因に大きく左右される。ハザードに暴露す る量(人口、建物数など)であるエクスポージャーと、社会の脆弱性(構 造物やライフラインの耐震性や対応資源など)であるバルネラビリティが 関わる。社会の実状を定量化し、過去の地震被害データに基づく統計式(ハ ザードと被害との関係式)を用いて、被害量が予測されるが、基礎データ の質や統計式の精度には課題も多く、定量化の精度には限界がある。このため、被害数量の絶対値よりは、むしろ地域間の相対的な被害程度の違い に注目されたい。また、定量化が難しい事柄については、多様なシナリオ を描くなどの定性的な予測が重要になる。国での被害想定では、様々な制 約で地域固有の特性を十分に考慮できていない。市民目線でのきめ細やか な評価は、今後、自治体で実施される被害想定に期待される。
 災害被害軽減の基本は、孫子の兵法にあるように、「知彼知己百戦不殆。 不知彼而知己一勝一負。不知彼不知己毎戦必殆。」である。ハザードの大 小を知って「君子危うきに近寄らず」と危険回避をし、被害の大きさを知っ て「転ばぬ先の杖」と、対策を実践する必要がある。「居安思危、思則有備、 有備無患」(春秋左氏伝)と、災前に備えれば「備えあれば患いなし」に なる。被害想定は、この行動誘発に活用されたい。この際に障害となるの が、「見たくないものは見ない」と「ひとまかせ」という人間の性である。
 これらを克服するには、あらゆる人に防災減災の問題を自分事と考えても らう場と、行動を促す場を作る必要がある。行政は公助の限界を白状する と共に、自助・共助を促すための啓発・育成と対策立案・行動実践のため の拠点作りを望みたい。また、報道機関、教育機関などのメディエータに は、市民や産業界の行動を促す番組・記事や体感できる効果的な教育教材 を作ってもらいたい。
 能登半島地震と比べ、地震規模が 100 倍を超える南海トラフ巨大地震 の被害様相はけた違いである。事前対策により被害を減らし、命と暮らし を自ら守るしかない。そして災害後は、全ての国民の力を結集する必要が ある。災後ではなく災前の行動を促すため、産官学民の総力を結集したい。

「着眼大局 着手小局」(荀子)で「転禍為福」(戦国策)を実現したい。

図 10年間の社会変化のイメージ(南海トラフ巨大地震WG資料より)