北海道南西沖地震 教訓の「その後」
特集:日本海側の地震津波の被害と教訓
NHK札幌放送局 メディアセンター長
菅井賢治
2023年12月1日
北海道南西沖地震をきっかけに、津波警報は地震発生数分後に発表されるようになった…。防災に関心がある方には比較的よく知られたエピソードではないだろうか。30 年前、200 人以上が犠牲となったこの地震と津波は、災害情報やその伝達を考えるうえで一時代を画す災害だったといえるだろう。私個人にとっても、駆け出し時代に直面した原体験ともいえる災害である。災害発生の半年後、当時の東京大学社会情報研究所がまとめた「1993 年北海道南西沖地震における住民の対応と災害情報の伝達」(以下、報告)を改めて読み返してみると、現在に通じる数多くの教訓や課題が記されていた。報告はネット検索で見つけることができるので、読んでいない方にはご一読をお勧めしたい。この報告を軸に、当時の記憶もたどりつつ、災害が残した教訓の「その後」を考えてみたい。
津波警報と観測値をめぐって
まずは1993 年7 月12 日22 時17 分に時を戻す。記者2 年目の私は、北海道の南西部、太平洋に面した室蘭市で、先輩らとの宴席を締めようとしていた。地元気象台の観測は「震度4」だったが、体感した揺れはもっと強かったように思う。横波を受けた小舟のような、異様に長い揺れだった。店を飛び出した時、眼鏡を落として割った。破片を拾いつつ、これからどんな被害を取材することになるのかと、不安を覚えた。職場に戻る頃にはテレビやラジオで臨時ニュースが始まっていた。気象台直通の黒電話が鳴る。「津波の到達予想時刻をお伝えします」という通告を初めて聞き、震える手で地点名と時刻を書き取り、札幌に送稿した。
報告や放送記録から時間経過を振り返る。地震発生約5 分後の22 時22 分、北海道太平洋側を意味する2 区に津波警報(「ツナミ」)が、日本海側の3 区には大津波警報(「オオツナミ」の津波警報)が発表された。当時は管区気象台が津波予報の発表官署だったが、のちに取材した気象庁関係者によれば、5 分は「当時の技術水準からは2、3 分早い」発表であり、札幌管区気象台の担当官の強い危機感が込められていたという。実際、10 年前に起きた日本海中部地震が約14 分後だったのに比べると、警報発表が大幅に迅速化されたことがわかる。しかし、震源に近い奥尻島沿岸では約5 分で津波が到達し、最も早いところでは3 分前後で到達した可能性もあるといわれている。当時の放送はどうだったのか。NHK 札幌放送局は、地震発生約1 分半後の22 時18 分45 秒から速報スーパーで地震発生を伝えた。「寿都で震度5」の情報を契機にテレビとラジオの番組を中断、北海道内向けの臨時ニュースを開始したのが22 時22 分だった。ほぼ同時刻に気象台からL- アデスで「オオツナミ」が送られていたが、情報伝達を電話で再確認していた時代、さらに約2 分を要し、警報を初めて放送で伝えたのは地震発生約7 分後の22 時24 分だった。
このほか、各防災機関への警報の伝達に遅延の問題が指摘されていたが、ここではさておく。重要なポイントは、気象庁がこれ以後、津波警報の「迅速化」を加速させ、同時に予報の「細分化」や「詳細化」も推し進めていったことである。95 年の阪神・淡路大震災を契機にした地震観測網強化を経て、99 年、津波シミュレーションをデータベース化した量的津波予報の運用を開始。マグニチュードや震源さえ決まれば、全国66 の予報区にわずか数分で警報を発表できるようになった。NHK や民放各社も、原稿作成や作画を自動化することによって、この流れに対応した。
ここで再び報告を読み返してみる。当時の放送では、大津波警報の津波予想について、「高いところで3 メートル以上」と表現していた。報告では遡上高30 メートルに達した実際の津波と「格差が大きすぎる」ことや、情報を受け取る人が「たいしたことはない」とイメージしてしまう問題を指摘している。また、検潮所で観測された数十センチ程度の潮位変化を津波の高さとして伝えると、「人々に誤解を与え、津波に対する警戒感が薄れてしまう」点にも言及がある。
後年の量的津波予報では、津波の予想高さが細分化され、最大で「10 メートル以上」という表現が設けられた。「10 メートル以上」が初めて使われたのは、2011 年3 月11 日の東北地方太平洋沖地震である。しかし、震源の破壊が数分間継続したマグニチュード9.0 の巨大地震は、量的津波予報システムの限界を露呈させた。速報値のマグニチュード7.9 に基づいて地震発生3 分後、「過去最速」で発表された大津波警報は、「宮城6 メートル、岩手・福島3 メートル」にとどまったのだ。沖合での津波観測を経て「10 メートル以上」が発表されたのは約30 分後、すでに波が港の岸壁を越え始める頃だった。「迅速化」と「細分化」、「詳細化」との両立は見直しを余儀なくされ、現在、発生当初の巨大地震の津波には、「巨大」、「高い」という定性的表現が併用されることになっている。同様に、観測データによる誤解、過小評価の問題も2011 年に現実となってしまった。ラジオから「大船渡港20 センチ」、「石巻市鮎川50 センチ」といった第一波の値を聞いた方々の中に、「いつもの津波と同じだ」と思って、避難を中断した人たちが実際に存在していた。こうした誤解が元になって、亡くなった方がいた可能性も否定することはできない。当時報道に関わったひとりとして、忘れてはならない課題だと受け止めている。気象庁と関係機関との議論の結果、2013 年以降、津波警報発表中は小さな観測値が伝達されないことになった。先の報告の指摘からは20 年ほどが経過していたことになる。
経験の功罪
もう1 つ、災害経験をめぐる教訓にも触れておきたい。報告では、奥尻島の住民に行ったアンケートや聞き取り調査から、被災時の心理や行動、亡くなった方々の状況を明らかにしようとしている。避難開始のタイミングを尋ねた質問では、23%の人が「揺れがおさまらないうちに避難しはじめた」と答え、「揺れはおさまったが津波がまだこないうちに避難しはじめた」人も54.9%に上った。情報が必ずしも伝わらない状況下で、実に8 割もの人が迅速に避難したと答えている。過去の災害経験が生きた人も多かったとみられ、10 年前の日本海中部地震が避難行動に影響したか尋ねた質問には、52%が「経験があったからすばやく避難することができた」と答えている。一方で報告では、同じ質問に「経験がかえってわざわいしてまだ余裕があると思い、避難が遅れてしまった」と答えた人が7.4%いたことに注目している。日本海中部地震の津波は、奥尻島に到達するまで30 分前後かかっていた。30 年前、私が奥尻島で取材していた際にも、「一緒に逃げていた人が『まだ時間がある』と言って港や船の方へ引き返してしまい、戻らなかった」という話を複数の住民から聞いた。この課題について報告では、「災害経験を大事にすることに異論はない」としたうえで、「わずか数十年から数百年の災害経験を絶対視することなく、経験に科学者の専門的判断を加えて後世に伝えていくことが必要であろう」と指摘している。今、日本で暮らしている多くの方にとって、津波の記憶は、地震発生数十分後に押し寄せた2011 年の巨大津波によって「上書き」されているのではないだろうか。北海道南西沖地震の教訓として、経験や予測を超える災害の複雑さ、多様性を丁寧に伝えていく努力がこれからも必要だと感じている。
最後に、あの夜の「その後」をもう一つ。日付が変わる頃、カメラクルーを仕立てて取材が届いていない渡島半島をめざすことになった。途中、暗闇の先には脱線した特急列車の灯りが見え、国道が陥没した穴には車が何台も落下していた。現実の被害だけでなく、「この先で橋が落ちている」というデマも耳にした。翌朝、日本海沿岸にたどり着くと、建物や道路に砂が付着し、津波の高さと範囲を示していた。この取材中、質問を発した記憶はほとんどない。出会った人たちは皆、問わず語りに、大切な誰か、何かを突然失った憤りや悲しみを訴えてきた。一連の取材を終えた頃、「理不尽」という言葉が頭に浮かんだ。そして、「適切な情報があれば、理不尽な出来事は減らせるかもしれない」と考えるようになった。
それから18 年後の2011 年、東京・渋谷の放送センターで揺れを感じた。すぐに、あの夜の揺れに似ていると思ったが、比較にならないほど揺れが長い。「大津波は避けられない」と、ひとり戦慄していた。その危機感をどうすればもっと適切に表現することができたのだろうか。今でも時々、思い返している。