関東大震災とメディア

連載:関東大震災100年・これからの100年 第6回

准教授
関谷直也
2022年12月1日

 
 関東大震災はメディアや広告産業に大きな影響を与えた。東京にしか拠点のなかった新聞社は、淘汰され、『毎日新聞』『朝日新聞』という大阪の二大紙を後ろ盾に持つ『東京日日新聞』『東京朝日新聞』はその協力で事業を継続して部数を伸ばしていった。正力松太郎が震災後買収した読売新聞社も、震災を契機に拡大していった。また、震災の影響で、各地域で不足する商品の広告を扱うようになった結果、全国的な広告出稿の前提が出来上がった。

 そもそも災害は産業に大きな影響をもたらす。メディア、広告にとっても同様である。現在の全国規模の大手新聞と密接な資本関係を保ちながら展開している日本のテレビメディアの勢力図や広告産業の発展を遡ると、1923 年9 月1 日に発生した関東大震災に源流を辿ることができる。
 なかでもメディアとして最も大きな影響を受けたのが、震災当時の主たるマスメディアの新聞であった。当時は、『東京日日新聞』『報知新聞』『時事新報』『東京朝日新聞』『國民新聞』という東京5 大新聞が大きな部数を誇っていたが、他にも様々な新聞社が数多く存在した。
 関東大震災により、多くの新聞社は壊滅的な打撃を受けた。被災した新聞社は新聞活字を収集することと、印刷所の確保に奔走した。だが、取材を継続することや、東京近辺で新たに印刷所を確保することは容易ではなかった。その結果、この大震災を原因として、5 大新聞のうち、『報知新聞』(『読売新間』に合流)、『國民新聞』(現『東京新聞』)の部数は大幅減となり、その勢いを失っていった。そして、『時事新報』『やまと新聞』『中央新聞』『萬朝報』など、明治期から続く伝統のある新聞が消えていく契機となった(大広、1994)。
 その中で、大阪出自の2つの新聞社が台頭してくる。大阪毎日新聞社の傘下にあった『東京日日新聞』(現『毎日新聞』)と大阪朝日新聞社の傘下にあった『東京朝日新聞』(現『朝日新聞』)は、関西の支社や他の新聞社と協力して情報収集や印刷を行うことで、この危機を乗り越えたのである。
『東京日日新聞』は火災を免れ、震災2時間後には号外を出すに至っている。『東京朝日新聞』は浦和まで原稿を持参、そこから電話による大阪までの通信手段を確保し、9 月10 日に号外を発行するなど、新聞刊行を徐々に再開した。
 すなわち、大阪・東京に2つの拠点を持つ、レジリエンス(回復力)を備えた新聞社2社だけが震災を持ちこたえ、その後の全国拡大へとつながっていった。東京にしか広告・販売拠点を持たない、産業基盤が脆弱であった新聞社は、震災を契機に淘汰された。また、正力松太郎は震災の翌年、経営難に陥った読売新聞社を買収し、現在に至る拡大の基礎を作った。関東大震災が新聞業界再編に大きく影響を与えたのは紛れもない事実なのである。
 広告もその機能を如何なく発揮した。
 『東京日日新聞』では、震災直後から多くの広告が掲載されている。刊行再開直後の9 月11 日の『東京日日新聞』は、その構成の半分を広告が占めていた。広告は、通信機能が断絶された中で、真に「お知らせ」、伝言版の代わりとして重要な役割を担うこととなった。
 震災直後の広告の内容は、一般の読者に企業の状態や復興の経過を知らせるものや、社員へ集合をかけるもの、仮営業所の案内、営業所の移転や店舗営業開始の報告(「荷車・ジヤツキ・畳大安売」「土蔵修繕」「焼跡迅速整備請負」「看護婦十名募集」)などの様々な「お知らせ」からなっていた。企業だけでなく、大学や病院などあらゆる組織が広告を掲載していた。震災直後、広告はまさに「お知らせ」という社会的機能を担うこととなった。
 また、当時の日本は、関東で日用品を生産し、それを地方で販売するという流通形態であった。そのため震災後、全国的に物資不足に陥った。このとき、当時の有力広告会社であった萬年社は、東北、関東、関西、九州で、モノ不足に陥った商品を調べ、広告主にその地域で不足する商品の広告をすることを提案したという。震災直後は広告の申し込みが皆無になったが、この方針によって、普段の数倍の広告を扱うことが可能になり、その結果として地方の物資不足の改善にも役に立ったのだという。そして、この災害を契機に、広告会社の営業は全国展開していくことになるのである。
 また、他方でちょうどこの頃、放送メディア(ラジオ)への関心が高まっていた。関東大震災の直後では、朝鮮人や中国人の虐殺事件へとつながったといわれる流言が大きな問題となった。そのことが「人びとに、『ラジオさえあれば流言飛語による人心の動揺を防げたであろう』という思いを起こさせ、放送事業開始の要望が急速に高まっていく」(竹山昭子2002『ラジオの時代』)のである。その後、震災を契機に、ラジオの実用化が急激に進んでいったのである。
 全国メディアの展開の基礎と、産業基盤たる全国的な広告出稿の前提ができあがった契機は、関東大震災であったのである。