災害情報と教育現場

特集:伊豆大島土砂災害から10年ー伊豆大島の土砂災害と今後の火山噴火ー


東京大学地震研究所
桑原央治
2023年3月1日

 
 死は目の前に在った。伊豆大島の高校に勤務していた私が、自然災害の恐怖に身をさらしたのは、1986 年伊豆大島噴火、割れ目噴火の爆発音に怯えながら、桟橋で家族や同じ集落の人々と共に救助船を待っている時である。入港してくる自衛艦を迎えて、行列する島民の間から歓声が上がったが、船は他の集落の孤立住民の救出を優先するために、誰も乗せずに再び桟橋を離れて行った。
 教育現場は必ずしも、「人命を守る」ことを最優先にして、組み立てられているわけではない。あくまで授業や行事といった、日常の教育活動が主体である。阪神・淡路大震災や東北地方の悲惨な津波を経験して、防災体制も少しは進んだろうが、肝心の人命を守るという大前提が、根づいているとは思えない。いじめによる児童・生徒の自殺、幼児の送迎バスでの事故の多発等を見ても、それは明らかだろう。教育や保育という仕事が、多くの人の命を預かるものだという研修が、行われたという話も聞いたことがない。それがなされていれば、大川小学校の悲劇も避けられたに違いない。学校は未曾有の災害が迫っても、日常の価値観を捨てられなかったのだ。
 教育現場における災害対応の問題点は、基底的な情報である〈インテリジェンス〉の忘失にある。災害情報といっても対象になるのは表面的な〈インフォメーション〉ばかりで、その根底に在る自然と人間の在り方という〈インテリジェンス〉に関しては、論じられることもない。防災教育にしても、サバイバル術に止まる。死という、誰もが避けがたい自然に基づく防災について、学校や寺院などでお話しする機会があったが、頷いてくれるのは生徒や老人たちで、教員や防災関係者からは疎んぜられた。
 具体的な災害対応ということでは、刻々と変化する状況の下、さまざまなレベルの〈情報問題〉が生じたが、主な3 点を挙げて締めくくりとしよう。

  1. 事前の情報判断の甘さ
     教員は活火山を抱える島に赴任するに当たって、その意識を持たされた危険性を教えられる機会は無かった。島の教育委員会が発行し、小学生が学習する教科書でも、三原山の噴火は穏やかな性格のものだと説明されていた。
     当然教員も生徒たちも、自分たちが破壊的な能力を持つ活火山の麓で、日常生活を送り、それが災害に直結しかねないことなど、まったく意識していなかった。まして大島測候所の一技官が、発災前年にある雑誌で、大島噴火の過去のサイクルからして、次の噴火が近づいているのを警告され
    ていたことなど、知るよしもなかった。火山と人間に関する基礎的な認識と、そこに生じるかも知れない危険についての〈インテリジェンス〉を、欠いていたのである。
  2. 基本的な情勢判断の歪み
     防災無線の在りようがそれだ。台風シーズンに警戒を呼びかける程度で、普段流されるのは、行政的な連絡などの生活情報が大半だった。結果、防災無線という意識は、島民の間では薄れていた。教員や生徒の中でも、関心は皆無に近かった。     
     そんな中で最初の噴火が始まったが、観光に依存した島の経済はそれを歓迎し、電話で爆発音が聴けるサービスまで始まった。島民のみならず、全国に向けてまったく誤ったメッセージを発したのである。教育現場もそれを鵜呑みにし、火山性地震や空振が頻発していたにもかかわらず、人と
    して当然の「恐怖」という貴重な〈一次情報〉は、無意識のうちに抑圧されていた。
  3. 情報の信頼性
     避難対応に関しての警察と地元消防団の判断と指示が、大きく相反することがあった。島民が正しく選択したのは、日頃の信頼関係に支えられた消防団の判断・指示だった。情報の信頼性というものが、生身の人間によって担保されていることを再認識させた。