東京湾要塞

特集:今でも見られる大正関東地震/関東大震災の遺構

東京大学大学院人文社会系研究科・文学部 日本史学研究室 教授
鈴木淳
2022年9月1日

 
 東京湾には江戸湾の時代から外国船の来航に備えた台場が築かれていたが、明治政府は明治13(1880)年以降、主にフランスの技術を取り入れて煉瓦造の海岸砲台を築き、1895 年に東京湾要塞として組織化した。当時の大砲では両岸の砲台だけで東京湾への艦船の侵入を阻止することは難しかったため、神奈川県の横須賀と千葉県の富津との間に「海堡」とよばれた砲台用の人工島が築かれた。海堡は富津側から、第一、第二、第三の三つが設けられ、もっとも深い、水深39 m の位置の第三海堡は1892年に着工された。数年石を投げ込み続けて頂部が海上に姿を見せ、日露戦争時には海軍が小口径砲や魚雷発射台を仮設して防御の一端を担ったが、荒天のたびに波浪による被害を受けた。そこで鉄筋コンクリート製ケーソンで防波堤を築くなど工夫を凝らし、ようやく1921 年に竣工した。これにより、明治の構想での東京湾要塞が完成した。
 その2 年後、明治大正期土木技術の結晶である東京湾要塞を関東大震災が襲った。最も被害が激しかった第三海堡では、鉄筋コンクリートで堅牢に作られていた地上の構築物が全て海中に転落、あるいは傾斜した。また第二海堡とともに全体的に沈下し、第三海堡は直ちに、第二海堡は3年後に砲台としての役割を失った。すでに火砲の発達により海堡の必要性がなくなっていたことも、その放棄につながった。その後、第三海堡は徐々に姿を没しつつも長らく一部を海上に顕わし、地上の構造物に著しい破壊の跡を残した第二海堡とともに、震災による破壊だけではなく風波による浸食も含めて、自然の猛威を伝えていた。しかし、第三海堡は海中に積まれた石や残骸が航路の障害となること、第二海堡は震災時に崩壊して航路の障害となる恐れがあることから、2000 年以降、第三海堡残骸の撤去と第二海堡の耐震性強化・整備工事が進められた。その結果、横須賀市のうみかぜ公園と夏島都市緑地公園で、海中から引き揚げられた第三海堡の一部を見ることができ、また第二海堡には、一部だけ震災を経た構造物の遺構が残されている。ただ、由来を知らずこれらを見ても、直感的に震災の遺構と認識することは難しい。
 横須賀市内に残る東京湾要塞の砲台跡のうち、比較的保存状態が良い千代ケ崎砲台と、全島が砲台に利用された猿島は史跡に指定され、保存と整備が図られている。このうち千代ケ崎砲台は震災の被害が比較的少なかった。近くの観音崎の砲台群とは異なり、無理のない配置で、盛り土をほとんどせずに地山を削って作られていたからである。そして、被害が軽微であっただけに早急に復旧工事が行われた。横須賀市が整備し、ガイドツアー限定で公開している走水低砲台は、当時の報告に「第一及第四砲座前の胸墻並頂斜面「べトン」には大亀裂を生じ且第一砲座「べトン」には多くの
亀裂を生ぜり」(「大正12 年11 月 東京湾要塞防禦営造物ノ震害ニ関スル調査竝研究」、陸軍築城本部『現代本邦築城史』第二部第一巻附録)とあるのだが、同様に早期に復旧され、現在「べトン」すなわちコンクリートにそれらしいひび割れは見ることができない。砲台の機能回復のための修理は、震災の痕跡を消してしまったようだ。千代ケ崎砲台であえて言えば、地下兵舎(掩蔽棲息部)の床がやや隆起してひびが入っているのが、機能上修理の必要がない故に残された震災の痕跡ではないかと私は想像するが、確証はない。【写真参照】
 一方で猿島砲台は被害が大きく、陸軍は復旧をあきらめた。現在も煉瓦造構造物のひびや損壊が多く確認でき、また、土砂崩れの跡も多いが、残念ながら震災直後の被害状況調査の報告が見当たらない。そこで、震災の痕跡を砲台廃止後の実験や敗戦後の武装解除の際の爆破、また自然災害や経年劣化による損傷と区別することができない。確かに震災遺構が残ってはいるが、見てわかりやすいものではないのが99 年後の東京湾要塞の現状である。

[参考文献]
国土交通省関東地方整備局東京湾口航路事務所,2005,東京湾第三海堡建史.日本港湾協会

    

千代ケ崎砲台の掩蔽棲息部の床に見られる隆起による亀裂