後藤新平“復興論“
連載:関東大震災100年・これからの100年 第3回
東京大学大学院工学系研究科都市工学専攻 教授
廣井悠
2022年6月1日
関東大震災からの復興において、後藤新平は震災を契機とした都市構造の抜本的改造を目指した。後藤が意図した復興計画は、完全な形では実現しなかったものの、江戸の面影を残す東京が近代都市への脱皮をはたしたという点で、帝都復興計画はわが国の都市計画史においてきわめて大きな意味を持つものと考えられる。
1923 年9 月1 日に発生した関東大震災後、復興計画の立案は帝都復興院総裁兼内務大臣の後藤新平を中心に行われた。彼は「焼土の全てを公債の発行により買い上げ、100m 弱の幅員と中央に緑地帯を持つ広大な街路を新しく建設し、整理後にそれらを払い下げる」という、膨大な費用を伴う壮大な復興案を掲げた。
ところが、巨額な費用を問題視した財界等の反発や、東京の改造に熱心でない有力者の存在により復興案は修正され、計画が大幅に縮小された。これにより幹線道路の幅員も狭められ、公園や広場は削減され、共同溝構想は廃止された。また非焼失区域での事業実施が見送られたことで、木賃ベルト地帯と呼ばれる木造密集市街地が形成され、戦時中の空襲被害はもとより、今日に至るまで道路拡幅など都市整備に甚大な労力がかかることになる。後藤の復興理念は、無秩序でやみくもな市街地の再生産を最大限食い止める「復旧」案でしか実現しなかった、と評されることも多い。
このように後藤の提案した「焼土の買い上げ」は実現しなかったものの、焼失区域では精力的な都市整備が進められた。畦道のまま市街化した近世のまちは、土地区画整理事業によって幅4m 以上の生活道路や上下水道・ガス等のインフラ整備がなされ、またオープンスペースや防災公園が分散的に配置され、不燃化された鉄筋コンクリート製の小学校と震災復興橋梁が並ぶ近代都市へと生まれ変わった。道路建設は無秩序な市街地の再現を恐れ迅速に行われたが、その際は従来までの都市建設における道路構造の主流であった格子状道路でなく、自動車の通過交通効率の良い放射環状路が計画・建設された。後藤は後に訪れるモータリゼーション時代を見通しており、この先見性は特筆に値する。都市を復興するうえでは、被災直後に発生するニーズのみならず、将来の中長期的な都市・社会・生活のあり
かたを展望する構想力が強く求められるが、これを示唆するエピソードと言える。
第二次世界大戦後、石川栄耀が構想した東京における戦災復興は、安井誠一郎知事やGHQ による緊縮財政などにより「敗戦国に復興は不要」とされ、またも大幅に縮小された。このこともあり、関東大震災後に後藤が意図した復興計画がそのまま成立しなかったことを惜しむ声は今日に至るまで多い。しかし、震災以前は開拓都市や外国人居留地でしかみられなかった計画的都市建設が、震災を契機として都市構造を抜本的に改造する大々的な計画案とともに明らかにされ、縮小されながらも近世のまちが近代都市へ脱皮をはたしたという点で、帝都復興計画はわが国の都市計画史においてきわめて大きな意味を持つ。
ところで、この計画は震災後わずか7 年で完了している。これほどまでに短期間の復興が可能となったのは、後藤が震災の2 年前に「都市計画研究会」や「東京市政調査会」として有能な実務経験者並びに学者を集め、「8 億円計画」といわれる都市整備計画を立案するなど、彼による都市に対する事前の計画理念の蓄積と優秀な人材の育成によるところも大きい。後藤の時代とは異なり、成長を前提とした都市整備・安全性向上が以前ほど見込めない現代に、人口減少・低成長がますます進むなかで、我々は復興に備えてどのような都市・社会を展望し、どのように計画理念を蓄積しておけばよいのであろうか。これはなかなかの難題である。関東大震災から100 年を契機に、帝都復興計画の現代的意義と人材育成も含めた「21 世紀ならではの布石の打ち方」を改めて再考する必要があるのかもしれない。
【参考文献】
越澤明,2001『東京都市計画物語』ちくま学芸文庫.
郷仙太郎,1997『小説後藤新平』学陽書房.