自己チューな情報のススメ
防災コラム
酒井慎一
2022年3月1日
災害の記録や記憶の伝承は大切であろう。そこで、自分があの時に何を思ったのか、個人的な気持ちを記しておく。2011 年3 月11 日14 時46 分、東京都文京区にいた地震の研究者の心持ちである。
まず、緊急地震速報で、宮城県沖の地震が発生したことを知った。宮城県沖は、今後30 年間でM7 級の地震の発生確率が99%以上と知っていたため、特に驚くことも無かった。すぐに居室(地震研究所1 号館5 階)も揺れ始めたが、免振建築だし、危険が迫っている、という感覚ではなかった。しかし、揺れが、なかなか収まらない。30 秒経っても、40 秒経っても、静かにならない。M7 級の破壊継続時間は、せいぜい20 秒程度なので、もっと規模が大きいのだろうか、と心配になってきた。その後、ゆれは収まるどころか、どんどん大きくなっていく。それは、震源(断層破壊)が首都圏に近づいてきている、ということを意味している。その時は、東京まで破壊が来ないで欲しいと、祈る気持であった。ようやく揺れが小さくなってきたので、次の行動である。瞬間的に、怪我もなく、本棚も倒れていないし、免振建物にいるので、安全であると確信した。避難をしなければ、という発想は、まったく沸いてこなかった。そこで、何が起きたのか、どんな地震だったのかを知ろうと、地震計のデータを調べ始めた。その直後、釜石沖のケーブル式地震計のデータが途絶えた。沿岸に到達した津波によって、観測局舎が被災していたのである。
あのとき、どう行動すべきだったのだろう。いつもの避難訓練と同様に、すぐに建物から退避し、みんなと共に広場に集まるべきだったのであろうか。一般的な安全を確保する行動をとるには、どんな情報が必要なのであろうか。どんな能力を身に付ければ、その情報を活用できるようになるのであろうか。私の場合は、何が起こっているのかを究明することを優先したが、それで良かったのだろうか。それは、人によって異なるし、環境によって異なるが、現状では、その人を中心とした情報が提供されていないので、判断が困難である。避難すべきか、誰かを救助すべきか、消火に向かうべきか、そこに留まっても良いのか等、自分の行動を決める情報が少ないのである。そのため、みんな一緒に避難しましょう、という大雑把な注意喚起しかされなく、差し迫った自分だけの役割を認識することが難しい。そして、多くの人は自分勝手な思い込みで、なんとなく行動してしまいがちなのであろう。あなたに何が起きたのかの現状把握と、今後あなたはどうなるのかの将来予測をセットにして、あなたのすべきことがあなたの心に届く仕組みが必要なのだと痛感している。