市民の避難について
特集:2021年7月 熱海伊豆山土石流災害の課題
片田敏孝
2021年9月1日
熱海市の土石流災害の映像が繰り返し流された。衝撃的な映像を見ながら、自分がこの地の住民だったら避難できただろうか。防災担当の行政職員だったら避難指示を出すことができただろうかと考えた。正直なところ私にはその自信はない。
三日間にわたって降り続いた雨の総量は多く、土砂災害警戒情報や高齢者等避難は出されていたが、この間の時間雨量でいうと最大で27mmと、特筆するほど強い雨が降ったわけではなく、不確実性の極めて高い土砂災害に対して、行政が避難指示を出すトリガーを見出すことは難しかった。また住民からすれば、雨の降り方にも避難情報にも避難スイッチを見出すことは難しく、避難せぬままその時を迎えるに至ったのであろう。この間の住民の心情を察するに無理からぬことのようにも思え、今更ながら避難の難しさを実感する。
しかし、それであってもあの土石流災害から身を守るためには、あの瞬間あの場に身を置かないこと以外に手段はない。個々の状況も事情も一切関係なく、その被災現場から避難したか否かのみが問われることになる。それを達成できる社会を目指すことが防災分野に期待される使命であるのなら、この問題は相当な難問であり、その使命を果たすために
は、防災の議論の根本的な枠組みを考え直す必要があるのではないだろうか。
熱海市の土石流災害については、建設残土の処分方法を巡って問題があったことが指摘されており、その検証作業と再発防止に向けての対策の必要性は言うまでもない。その問題を除いたとしても、従来の防災分野の議論では、この避難に関わる難問を解決するには至らない限界を感じる。これまでの議論を大まかにまとめれば、災害情報を出す側は適時適切に情報を発信し、伝達を迅速確実に行うこと。住民はハザードマップによってその地の被災リスクを平時より認識し、自然災害の不確実性とその下での災害情報の限界を理解して、早い段階での避難情報や地先での異変に機敏に対応して、万一に備えて早期に確実
に行動を起こすこと、と言うことになろう。
まさにその通りであり、防災専門家がことさら指摘しなくても当たり前の理屈である。従来の避難の議論は、この範疇にとどまる議論に終始していたのではないだろうか。しかし、それであってもそれができないところに避難問題の難しさがあり、災害情報の小手先の技術論であったり、言うまでもない災害対応行動あるべき論の連呼では、問題の根本的な解決には至らないことは既に十分にわかっている。そこには技術的改善に邁進し、マニュアル的なあるべき論に従った行動要求によって課題解決を目指す日本社会にありがちな対処法が見て取れるが、完全に排除することができない災害の不確実性を考えると、その延長に避難問題解決の本質があるとは思えない。
技術的改善によって現象や情報の不確実性を軽減する努力は、今後とも必要なことであり否定すべき話でもない。しかし、どれだけ技術的対処を高度化しても、不確実性の高い災害現象とその下での不確実な被災状況は変わらず、それらに関する災害情報にも不確実性が存在し続けることは未来永劫変わらない。スーパーコンピュータを利用した精緻なシミュレーションも、あり得る事態の想像に対して現実感とそれに連動する緊張感を与えることには寄与するであろうが、災害現象や被災に関わる状況を精度よく予測できる話とは全く異なる。
その認識の下でわが国の避難問題に求められることは、不確実性の排除は不可能であることを前提にすること、災害制御可能感に浸ったゼロリスクの追求に固執することを見直すこと、それに対する国民の期待を明確に断ち切ることなのではないだろうか。
その結果として社会全体の共通認識として、自らの判断に基づく行動のみが自らの被災状況に直結するという当たり前の事実、そして、そこには個々の事情もその時の致し方ない事情もまったく関係がない現実があることへの理解を定着させることが必要なのだろう。まずはそれを国民の共通認識としない限り、災害に直接対峙した自分がいるという真の当事者感は期待できない。
災害が激甚化するなかにあって、避難問題は災害の不確実性に向かい合う個人個人の姿勢のあり方が一層問われる状況になっている。しかし、防災に関わる行政や専門家の議論は、相変わらず不確実性に立ち向かい避難に関わる防災サービスのレベルの向上が議論されているのが現実ではないだろうか。