被災地の信頼得ずして、被災地報道なし
特集:雲仙普賢岳噴火火災から30年
日本テレビ放送網 報道局ニュースセンター専任部長 谷原和憲
「だめだよ~ あんな危ないことしちゃ」 雲仙普賢岳の大火砕流から約半年後、当時・東京大学社会情報研究所教授だった廣井脩先生に初めて会った時に頂いた第一声だ。廣井先生の言う「あんな危ないこと」とは、初めての火砕流から3日後、大火砕流の1週間前の91年5月27日、流下した火砕流の先端まで筆者が入り込み、火山灰などの堆積物に手を入れ「すごく熱いです!」と現場リポートしたことを指す。入社6年目、東京から来た応援記者には「起きたことを、他社よりも早く詳しく伝える」という普通のニュース取材の発想しかなかった。被災地での取材者の行動が地元の人たちを巻き込むことになる…とまで考えは及ばなかった。
30年前の大火砕流では43人が犠牲となった。そのうち消防団・警察そして住民が20人、各社利用のタクシー運転手も含め報道関係者が20人。被災地の住民や防災担当者、そして報道の取材者が一緒に巻き込まれる災害だった。
被災した場所には当時、島原市が避難勧告を出していた。日々火砕流の到達距離が延びていくことに対し、当時の九州大学島原地震火山観測所の太田一也所長も「筒野バス停より上には入るな」と具体的な警告を繰り返していた。しかし、住民も消防団も報道関係者も、あの日・あの場所にいた。それぞれの事情もあったが、特に「報道関係者がいた」ことが地元の人たちに影響を与えていた。
当時、報道関係者は「定点」と呼ばれる場所に集まっていた。普賢岳の山頂から約4キロ、溶岩ドームが崩れ始めて火砕流となり山肌をかけ下りる一部始終を撮れるポイントだ。定点より山寄りにも麓の集落があり、当時はまだ集落に達するほどの火砕流はなかった。
「定点」の周辺には葉タバコや畜産などの農家が多かった。特に葉タバコは毎日のように手入れが必要な時期だったという。このため日中だけ避難所から畑に通っている人もいた。『報道の人が入っているから大丈夫だと思った』…被災から半年後・一年後など時間が経ってからの取材で、何人かの住民からそう聞かされた。
避難勧告が出ていたことも、太田所長の警告も、もちろんニュースとして連日報道していた。でも地元の人たちにとっては、「報道を通じて伝えられている情報」と「取材者の動きから読み取った情報」に食い違いが生じることとなった。
消防団の人たちは避難後の留守宅などの見回りを行っていた。そのなか住民から「報道の人が敷地に入っている」との声があがり、置き手紙をして民家の外の電気コンセントを無断借用した事案も発覚した。『あんたらのせいで、消防団や住民は巻き込まれた』…大火砕流の直後、地元の消防幹部から直接叱責された。
大火砕流から30年となる今年、地元の町内会に長崎の報道各社が協力する形で「定点」が災害遺構として整備された。新しく設置された石碑には「雲仙普賢岳の災害教訓を未来に活かすことを誓う」と刻まれている。『被災地で見られている存在であることを自覚し、被災地の信頼を得て取材・報道する』…あの日からの決意は変わらない。