雲仙普賢岳噴火の科学的な意義

特集:雲仙普賢岳噴火火災から30年

防災科学技術研究所 火山研究推進センター 中田節也
2021年6月1日

 1990年11月から始まり1995年2月頃に終息した雲仙普賢岳噴火は、犠牲者44名が出るなど、日本の火山災害としては当時戦後最大のものであり、科学的にもインパクトの大きいものであった。島原半島の海沿いの国道から見える普賢岳の山頂部で溶岩ドームが成長し始め、それが次々に崩れて火砕流が発生した。その火砕流に伴う火山灰の雲が山の斜面を流れ、森や田畑を覆い民家に迫る様子がしばしば目撃され、その様子がお茶の間のテレビでも繰り返し映し出された。また、大雨のたびに火砕流堆積物から発生する泥流の被害が海岸まで広がった。
 それまでの地質学研究において、溶岩流や溶岩ドームの直下に火砕流堆積物が厚く分布することがよく知られており、火砕流の噴火と溶岩の噴火は別の時代のものであると解釈されてきた。しかし、普賢岳噴火は溶岩ドーム形成と火砕流発生が同時進行することを教えてくれた。1991年6月3日に溶岩ドームが大きく崩れて火砕流が発生し、それに伴った熱風(火砕サージ)によって、3名の外国火山研究者を含んで、多くのマスコミ関係者と地元の警察、消防団員、タクシー運転手が犠牲になった。その火山研究者らは世界の噴火現場を多く訪れており、火砕流については最も熟知していたはずであった。しかし、皮肉にも、彼らがその犠牲になったことで、火砕流の脅威を世界に知らしめ、そのメカニズムについての理解を進めるきっかけとなった。
 この火砕流災害の12日後に、フィリピンのピナツボ山で20世紀最大の噴火が起こった。そこでは、火山灰噴煙の柱が崩れて大火砕流が発生し、接近していた台風の大雨による泥流発生が加わり大きな被害が出た。普賢岳、ピナツボ山と連続したこの二つの火砕流と泥流による災害は火山研究者だけでなく国際的に大きなインパクトを与えた。普賢岳とピナツボ山はマグマの化学組成が類似していたが、マグマからの脱ガスの度合いが異なり、それ故、爆発度も異なった。その違いを生じた地下の構造を探るために、普賢岳の山頂下を掘削する国際プロジェクトが実施され、噴火終息後9年目に、火道に残った溶岩やその周囲の岩石を採取することに成功した。
 普賢岳噴火では、アクセスの良さからそれまでには見られない精度と頻度で火山観測を行なったため、その研究結果は、その後の世界中の起きた溶岩ドーム噴火の理解や防災対策に参照された。また、普賢岳のドーム溶岩や火道溶岩を用いた噴火ダイナミクスを解明する研究は、ドイツの研究者などと共同で続いている。
 一方で、普賢岳噴火で約100年前の十勝岳の泥流災害以来の多くの犠牲者が出たことが、火山災害に対する取り組み方を大きく変えた。火山研究者が犠牲になったことが、彼らに火山防災を任せられないという考えを招き、2000年の有珠山噴火からは国が火山防災の前面に出てくるきっかけとなった。その2000年噴火では、北大の岡田教授(当時)らが過去の噴火記録との類似性に気づきその開始を予知し、そのことが噴火予知は可能であるという一種の神話を生んだ。普賢岳噴火の災害と有珠山における噴火予測「成功例」が、2007年の気象庁の噴火予報業務の法律化を促進し、研究と防災が分離した、活火山国で唯一の縦割り火山防災体制ができあがった。有珠山が噴火を比較的短期間に繰り返す常時監視観測火山であったからこそ上手くいった予測例である。一旦始まった噴火の推移、規模、被害の予測、噴火観測経験の少ない火山における噴火開始予測は未だに不十分であり、監視観測と火山研究の密接な連携を抜きにしてこれらの実現はありえない。

雲仙普賢岳噴火で島原市南千本木地区を襲う火砕流(1993年5月24日朝、筆者撮影)