コロナとコロナ禍での避難
特集:コロナとコロナ禍の防災
片田敏孝
2020年9月1日
コロナ禍も自然災害も対応の結果は自らに帰す
新型コロナウイルスが蔓延するなか、令和2年7月豪雨が九州を中心に全国に被害をもたらした。新型コロナウイルス蔓延という未知なる災禍に対する感染防止策、そして対策がもたらす経済損失の最小化という難しい問題に直面するなかで起こった豪雨災害は、激甚化が進む近年の豪雨災害の中でも、特筆に値するレベルの記録的な豪雨となって容赦なくわが国を襲った。
コロナ禍に日本社会が戸惑っているなかで出水期を迎え、コロナ禍における災害避難のあり方を議論し、所属する学会として社会に対する提言を発表したのは、令和2年7月豪雨に先んじてのことであった。この時点で危惧していたことは、コロナ禍を気にするあまりに災害避難を思いとどまる事態が多発するのではないかということであった。コロナ禍はいわば社会が慢性疾患にある状態であり、そこにおいて発生する豪雨災害は、同時に併発する急性疾患と言える。
慢性疾患があったとしても急性疾患に対処しないことはあり得ない。そこでこの提言では、コロナ禍にあっても災害避難は躊躇してはいけないこと、そのうえでウイルス感染防止のために、避難に際しては分散避難を心がけ、在宅避難や親戚知人宅への避難などを積極的に行い、完全なる3密解消が難しい避難所への避難はできる限り避けることなどを呼び掛けた。
この提言は、コロナ禍における災害避難のあり方を示したものではあるが、新型コロナウイルスへの感染防止に最大限の対処しつつ、災害からの難を逃れる手立てを国民一人ひとりが考えなければならないことを訴えることにおいて、自らがリスクに向かい合うことの本質を問う機会となった。
事態の展開が専門家でも読み切れないコロナ禍が蔓延する中にあって、社会には3つの気づきがあった。一つめは、感染防止は自分が手を洗い、マスクをして、3密の現場を避けるといった、自分自身の予防策だけが効果を持つことを思い知らされたこと。二つめは、自分の感染防止の外部性。感染したことに責任は無いものの、自分が感染した場合の家族や職場に与える影響は至って大きく、自分の行動は自分の安全に留まらない影響があることを強く認識したことである。そして三つめは、事態の展開が未知なる状況で、専門家や行政に頼ってもあてにはならないこと。唯一確かなことは、自らが対応したことだけが自らの安全につながることを思い知らされたことだろう。
どんなに対応しても相手は未知なるウイルスであり、不安は解消されない。不安の行き先は、専門家や行政に向いがちだが、コロナ禍では専門家にも事態の展開は読み切れないことを目の当たりにして、結局は自分のとる対策のみが本質であることに気付かされた。
このことは令和2年7月豪雨などの災害でも同じことである。線状降水帯はどこにできるのか、どの程度の雨が降るのか、気象庁もそれを予測することはできない。展開が読めないことにおいて、災害の本質もコロナ禍と同じであるということである。そしてこの事態において、地域がどのように対応したのか、自分がどのように対応したのか、ということのみが容赦なく被災の有無を決める。これもコロナ禍と同じである。
コロナ禍と激しい豪雨災害を通じて、他者に依存しない自分の対応こそが災難に向かい合う本質的な姿勢であるという認識を今こそ広めなければならない。そして、そこにおいて防災の専門家が果たす役割についても再考しなければならない。従来において防災の専門家の対社会的な活動は、災害などの事態が読み切れない事態に対する対応の手立てを指南することに偏っていたのではないだろうか。そのような活動も被害軽減においては、一定の効果もあるであろう。しかし、より重要なこととしては不確実な事態への対応の本質は、国民一人ひとりが災いに向かい合う姿勢を持ち、専門家が指南する対応の手立ても含めて、国民一人ひとりが取る対応の結果はすべて自分に帰すという当たり前を周知徹底することなのではないだろうか。