北海道奥尻町における災害経験の伝承について
CIDIR Report
定池祐季
2014年6月1日
1993年7月12日22時17分、北海道南西沖でマグニチュード7.8の地震が発生した。この地震により発生した津波はわずか数分で奥尻島に到達し、津波、斜面崩落と火災によって、198名が犠牲となった。
筆者はこのとき、奥尻島に在住しており、近所の方の誘導で高台に避難をした。その方達は奥尻島でも2名の犠牲を出した日本海中部地震(1983年)の記憶があり、地震=津波という意識があったという。この地震の時には津波警報が間に合わなかったが、経験に基づく知識によって避難行動に至った人々の存在については、東京大学社会情報研究所「災害と情報」研究会(1994)にも記されている。
本稿では、その後の奥尻島における、災害経験の伝承について報告する。
まず、奥尻町で最も継続的に行われている取り組みは、地震(津波)避難訓練である。これは、日本海中部地震(1983年)を契機として町内の学校で実施されるようになったものであり、地震を知らせるベルが鳴ると机の下に隠れ、その後体育館または屋外に避難をするという標準的なものである。北海道南西沖地震後は、町内の小中学校で災害の発生した7月12日前後に訓練を実施し、事前事後の学習や講話などで北海道南西沖地震について学ぶ時間を設けている学校も見られる。特に南西沖地震で被災した青苗小学校については、近年国内外からの見学者や、報道関係者の取材が多く見られている。これら訪問者の存在によって、訓練にさらなる緊張感が生まれている。
なお、学校独自の防災教育については、ニーズが潜在化していることもあり、実施の有無や内容については教員の裁量に依るところが大きい。
一方で、来島者や島外向けの発信については、スマトラ島沖地震(2004年)を契機として増加している。2005年以降、奥尻島が防災教育を目的とした教育旅行の訪問先として選択肢にのぼるようになった。この教育旅行は、東日本大震災後さらなるニーズが見込まれると判断されたこともあり、2011年以降、防災教育を観光のコンテンツの一つとして位置づけるようになった。
また、東日本大震災発災後は、災害対応から復旧・復興、そして防災・減災に関する様々な発信が求められるようになった。そのような場合に活躍しているのは、語り部達である。この「語り部」には、以前より個人的に活動していた人と役場職員のように組織の中で語り部的役割が求められていた人、新規にできた「語り部隊」に登録されることによって活動するようになった人が見られる。「奥尻島津波語り部隊」は2012年4月北海道の補助事業により発足した。この語り部隊は町内の学校や、奥尻町を訪れる個人や団体、島外の団体に派遣され、個人や組織の災害対応や教訓について伝えている。
このように、奥尻町における災害経験の伝承は、外部からの求めに応じて教訓発信を行うことが中心であった。スマトラ島沖地震と東日本大震災をきっかけとして、視察や教育目的の来島者が増加した。それを機に、観光戦略の中に防災教育を位置づけ、島外に向けて災害伝承を行おうという気運が見られるようになった。つまり、島外に向けた災害の伝承は、外発的な行為であったものが、内発的な行為も加わるようになりつつある。
その一方で、島内、特に子どもに対する災害伝承は、特定の個人や学校の裁量に委ねている状況である。そのため、島内で災害を伝承していくためには、子ども達への継続的な学習の機会を設けることが必要とされる。
昨年で北海道南西沖地震20年のメモリアルを終えた奥尻島は、報道の過熱こそ去ったものの、防災・復興関係者の視察が続いている状況にある。語り部達の中には、依頼に応える中で「津波被災地の先輩」としての自覚が芽生え、島内においても主体的に災害伝承を始めようとする動きが見られるようになっている。島内外への災害伝承がどのように展開していくのか、今後も継続的な調査を行う予定である。
【謝辞】
本稿は文部科学省科学研究費補助金(若手研究(B))「津波被災地における地域社会の復興と被災者の生活再建のあり方を巡る社会学的研究」(平成24〜26年度)の成果の一部である。
【参考文献】
東京大学社会情報研究所「災害と情報」研究会,1994,『1993年北海道南西沖地震における住民の対応と災害情報の伝達』東京大学社会情報研究所