災害対策基本法制定に至る背景

特集:災害対策基本法制定 60周年

目黒公郎
2021年12月1日

 災害対策基本法は我が国の災害対策関係の法律の中で最も重要で基本的なもので、1959(昭和34)年の伊勢湾台風を契機として、1961(昭和36)年に制定された一般法である。以下で、これが制定されるにいたる背景を概説する。
 国力を総動員した戦争の後遺症ともいえる国土の荒廃と治山治水対策が不十分であった。1945(昭和20)年から1959(昭和34)年の15 年間には、1,000 人を超える台風災害や地震災害が頻発し、この間の自然災害による年間平均死者数は2,365 人であった。大規模地震は毎年発生するわけではないが、台風は毎年複数回、国土に接近したり上陸したりしていることを考えれば、当時の防災体制が不十分であったことは明らかである。このような状況を背景として、1947(昭和22)年に災害救助法、1948(昭和23)年に消防法、1949(昭和24)年に水防法、1956(昭和31)年に海岸法などが、災害の後追い的に制定されている。
 さらに当時は、甚大な災害が発生すると、その災害への応急対応や復旧活動のための法律が、その都度、特別法として制定されていた。その中には、被災した自治体の公共事業のための国保補助金率の引上などが含まれるが、このような法律が毎年多数(例えば、1953(昭和28)年には26 件、1959(昭和34)年には27 件など)設立された。その結果、災害対策基本法が設立される1961(昭和36)年時点では、災害関連の法律は実に150 を超えていた。
 これらの法律に関しては、災害対策基本法が設立される前から、次のような様々な問題が指摘されていた。「大規模災害の発生直後の厳しい時間的制約の中で制定されてきたので、他の災害関連の法律との事前調整が不十分で、法律全体としての整合性や総合性、計画性などに欠けている」、「災害関係の事務処理が縦割り的であるとともに責任の所在が不明確である」、「災害の度に新たに法律を制定するために時間を要し、迅速な対応が実施しにくい」、「被災地域やその周辺に有力な政治家がいる場合といない場合で、法律の制定の有無や内容、制定時期に差が生じる」
 上記のような課題は、1959(昭和34)年9 月末の伊勢湾台風による災害後にも如実に表れた。この台風による死者行方不明者は、愛知県(3,378 人)、三重県(1,273 人)、奈良県(113 人)、岐阜県(104 人)を含め、合計で5,000 人を超え、負傷者数は約3 万9 千人に及んだ。物的被害も、全壊家屋3 万6 千余棟、半壊家屋11 万3 千余棟、流失家屋4 千7 百余棟、床上浸水約15 万8 千棟、船舶の被害も約1 万4 千隻が被災した。この被害を受けて、災害対策全体を体系化し、総合的かつ計画的な防災行政の整備及び推進を図ることを目的として災害対策基本法が設立された。この法律は、「国土並びに国民の生命、身体及び財産を災害から保護し、もって社会の秩序の維持と公共の福祉の確保に資する」べく様々な規定を置いている。具体的には、1) 防災責任の明確化、2) 防災体制の整備、3) 防災計画の整備、4) 災害予防対策、5) 災害応急対策、6) 災害復旧対策、7) 財政金融措置、8) 災害緊急事態への対応、などを盛り込んだ法律である。
 ところで、複数の都道府県を被災地とするような大規模災害時によく指摘される問題に、被災地全体での調整や総合的な災害対応が困難になることが挙げられる。これは複数市町村が被災地になる場合の知事による統括に比べて、複数都道府県の場合の総理大臣の統括がより困難であることを示している。この背景には、被害の規模の違いに加え、知事と総理大臣の被災地の地域特性に対する熟知度の差や日ごろからの連携した活動の有無などの違いがあると考えられる。この改善策としては、大規模災害の空間的な広がりを考えると、道州制程度のエリアを統括単位とする国土運営も一案と考えられる。一方で、災害対策基本法では市町村長が災害対応の一義的な責任を持つようになっている。これは災害の規模と発生頻度の関係からは妥当だが、複数の県を含む広域災害であった伊勢湾台風を契機として制定された法律において、なぜこの問題が取り残されたのかいつも疑問に思っている。