報告書 平成3年雲仙岳噴火における災害情報の伝達と住民の対応

1992年3月1日発行

①災害の概要

1990年11月に噴火活動をはじめた雲仙普賢岳は、91年6月3日地獄跡火口に形成された溶岩ドームから発した火砕流によって、死者・行方不明者43名という大被害を生み、その後も火砕流や土石流によって家屋や田畑に損害を与え、92年に入ってもなお危険は続いている。

② 調査の内容:

長崎県島原市・深江町、居住する20~69歳の成人男女、調査時点で、避難所・仮設住宅および親戚・知人宅に住んでいる住民300人(島原市800人:深江町500人)、系統抽出法、避難所・仮設住宅の住民は留置法(.600人)、親戚・知人宅の住人は郵送法(700人)、平成3年8月5日から10日までの6日間。回収数942票(島原市:654、深江町:288)、回収率72.5%

③ 主な結果

災害情報はどう伝達されたか:

それは普賢岳の噴火からはじまった:雲仙岳の主峰・普賢岳がはじめて噴火したのは1990年11月17日で、91年2月12日には2度目の噴火が発生し、その後も、小噴火をくり返した。

火砕流発生す!:1991年5月15日から21日にかけて5回の土石流が発生したが住民の避難がスムーズに行われ、人的被害はゼロだったのであった。5月20日、雲仙普賢岳に溶岩ドームが出現し成長を続け、5月21日午後には大小5つに割れ、22日にはそれがバラバラに砕けた。24日には最初の火砕流が発生した。

大惨事が起こった!:6月3日午後4時頃、普賢岳東斜面の地獄跡火口から最大規模の火砕流が発生し、43人もの死者・行方不明者を生じてしまった。火砕流はものすごい勢いでかけ下って、5キロ離れた島原市白谷町まで達し、北上木場町の民家30軒を焼いたほか、一瞬にして警察・消防関係者や住民、報道陣などの命を奪った。

警戒区域が設定された:警戒区域の設定を6月7日に行った。警戒区域は立ち入り禁止となるため市長が躊躇したためその説得に時間を要した。

雲仙岳噴火と住民の対応(アンケート調査より):

土石流か火砕流か:7割の人が、土石流の方が危険だと思っていた。火砕流という言葉をよく知らなかった人が54%もいた。火砕流を見て危険だと思っていた人はわずか9%に過ぎなかった。

非難はどう行われたか:大火砕流が発生した月曜日の午後4時過ぎに、自宅にいた人は37%と少なく、勤め先(31%)、田畑(8%)、車(9%)などに分散していた。上木場の住民の35%は、避難所にいた。

警戒区域設定と非難生活:12,000人が住む地域を警戒区域に指定し立ち入り禁止とした措置について、90%の人が「やむを得ない」と支持している。最初に避難したところは、親戚の家(46%)、公民館・体育館(42%)であった。第1の避難先で滞在日数が6日以内の短期非難(37%)、4週間以上の長期避難(33%)が多く、平均で20日前後であった。

マスコミへの評価と情報ニーズ:6月3日以降は報道の姿勢が興味本位の構成を自粛し、災害実態を正確に伝えようとするものに変わり住民から期待されるようになった。

④ 提言・結論

正確な危険認識形成のためのコミェニケーション上の課題:6月3日の被害発生前に、住民や地元市町は、専門家が発した警告を、真剣には受け止めていなかった。地域住民や地元市町に災害の恐さを正しく理解してもらうには、さまざま工夫と努力が必要と考えられる。

火砕流という用語の問題:火砕流という言葉には、熱いガスが猛烈な勢いで押し寄せてくるというイメージが薄く、災害のイメージを直感的に、正確に描けるような用語を選択する必要がある。