報告書 都市災害の情報問題 ―その1-
1987年3月1日発行
① 災害の概要
安政大地震:安政2年(1855)10月2日江戸を襲った地震はM6.9の直下型地震で発生した地点が江戸であったために社会的影響の極めて大きいものであった。
関東大地震:大正12年9月1日北緯35.2度東経139.3度の海底で、マグニチュード7.9の地震が突然発生し、関東の1府6県が被害を受けたが東京および横浜の被害は壊滅的だった。横浜市は死者・行方不明2万3000人、全壊・全焼世帯7万2000という被害を生じた。
② 調査の内容
アンケート調査とは異なったアプローチをとって、過去の都市災害において情報問題に焦点をあてそのいくつかの側面を考察してみた。
③ 主な結果
江戸時代における災害情報の伝播過程:
情報伝播過程にみられる地域性:江戸を中心に拡散する情報の波は江戸を離れれば離れる程日数を要する。江戸以東および北陸方面に向う波は江戸との距離の遠近にほぼ見合った弧を描くが、中部・東海道周辺の地点では地震情報の遅速の入乱れが目につき大阪以西の各地点では江戸との距離と情報の遅速にはっきりとした相関を認めがたくなっている。
情報伝播の社会的特性:江戸時代は緊急情報すら制度化された情報として位置付けされる成熟した社会であった。
情報行動にみられる階層性:江戸時代は突発的な災害情報でさえ情報伝播の仕組が制度化されている社会だった。このような社会では、情報の制度的体系に真っ向から対抗するような動きは起こりにくい。
関東大震災における情報問題:
避難と避難生活:地震直後から火災が発生し燃え拡がったため、多くの市民が避難したが確かな情報がないからただやみくもに逃げ回るばかりで幸運な人々だけが生き残った。避難者の総数は30万人にのぼっている。「臨時震災救護事務局」は東京府や東京市に委任し罹災者収容のためのバラックを建築させ10月中旬までに16万3千人を収容したバラック街ができあがった。
安否をたずねる人々:家族と離れ離れになった多くの罹災者は,張り紙やノボリなど,きわめて原始的な手段によって,その安否をたずねることになったのである。
新聞広告欄の安否情報:災害直後には罹災者には貼り紙やノボリに探し求める相手の氏名や年齢を書いたのであった。しかし、日が経つにつれ新聞が復刊されると新聞の広告欄が利用されるようになっていく。いくつかの公的・私的機関では「尋ね人探し」を行なっている。
「震災彙報」の分析:
臨時震災救護事務局:震災直後の9月2日、政府は罹災者救護と被害の応急復旧を迅速に行なう目的をもって,「臨時震災救護事務局」を設置した。震災地の救助に必要な食料や資機材の「非常徴発令」を公布し、約6,500石の米を徴発・購入し被災者に供給した。
情報部と震災彙報の発行:臨時震災救護事務局の情報部は新聞が全滅し各種の流言輩語がひろがったため、震災についての確実な情報を迅速に伝達する必要を認め9月2日「震災彙報第1号」を発行したのである。内容は、「政府の措置」、応急救護措置」、「復旧・復興状況」、住民への注意・禁止の呼びかけ、被害状況、などが報道された。
④ 提言・結論
都市防災は、わが国の防災対策のなかで基本的に重要な位置を占めている。都市災害を考える場合、過去の都市災害を振り返り,そこで顕在化した諸問題を洗い出す作業も必要であろう。