被害想定はなぜ必要か
特集:被害想定とは何か(前編)
東京大学 名誉教授
平田直
2024年3月1日
東京都は2022 年5 月に「首都直下地震等による東京の被害想定(平成24 年公表)」及び「南海トラフ巨大地震等による東京の被害想定(平成25 年公表)」を10 年ぶりに見直し、「首都直下地震等による東京の被害想定」として公表した。国や自治体はなぜ地震被害想定を公表し、それに対して市民はどの様に受け止めるかを考える。
そもそも、なぜ被害想定を行うのか。行政機関が被害を想定するのは、行政の施策として地震対策を行うための前提を明確にするためである。対策の前提が「想定」である。この「想定」を行うためには被害の「予測」が必要となる。公のお金を使って対策を行うには、具体的な被害の様相、被害規模を仮定して、必要な対応を行う必要がある。この仮定は、役所が恣意的に行うのではなく、誰でも納得できる公平なものである必要がある。一般には、科学的な予測に基づく想定が良いとされ、科学的な予測は高度に専門的であるから、地震学や災害科学の専門家の意見が重視される。その対極は、一般市民の意見に基づく災害対策の前提の判断と対応策の策定である。市民の経験に基づく被害想定とそれに対する対応策を行政が施策として実施することも、原理的には可能である。
しかし、大震災のように、十数年から数百年に一度の頻度で発生する、日常的な感覚からは稀にしか発生しない事象について、市民の経験できる時間スケールで判断することは難しい。そこで、科学的な予測に基づく対応策が必要となる。科学的な予測とは、過去の事象を整理して法則を見出し、まだ起きていないことを描き出すことである。科学的に予測するためには、予測の理論とデータが厳密に定義されている必要がある。つまり、科学的な予測では、予測の前提となる理論とデータの選択が必須である。前提を変えれば予測結果は異なるので、科学的予測は複数ある。
災害対策を行うための前提は、事実上「一つ」にする必要がある。特に行政が市民の委託を受けて進める施策は、選び取った一つの前提に基づいて進めるのが一般的である。行政が前提とする「想定」は、科学的な予測の内のある一つの予測に基づいている。
東京都の想定では、地震学的にはどこでも起きうる地震から8 つを選び、その中から区部で被害が最大となる地震として「都心南部直下地震(M7.3)」、多摩部で被害が大きくなることが予想される地震として「多摩東部直下地震(M 7.3)」を選んで被害を想定した。決して都心南部で大地震が起きる可能性が他の地域に比較して高いから選んだのではない。
2022 年の東京都地震被害想定では、10 年前の都の被害想定に比べて建物被害が約6 割に減ると想定した。これは、住宅の耐震化率が10 年前より向上したことなどによる。もし耐震化率が100%になれば、揺れによる被害は約4 割に減るとされた。ここで言う耐震化とは、1981 年の耐震基準を満たすと言うことである。しかし、2000 年の基準を満たせば、死者・全壊数は約2 割になる。これまで、東京都は1981 年基準を満たしていない住宅の耐震化に対する補助を行ってきたが、2023 年度からは2000 年基準を満たさない住宅の耐震化補助を始めた。国や他の県等では、1981 年基準以前を所謂「旧耐震」として、耐震化施策の対象としている。東京都は、被害想定で2000 年基準の重要性を示し、災害対策として
2000 年基準を採用した。被害想定と災害対策の対応の好例である。能登半島地震の被災地域で、耐震化率が低かったことと石川県等の地震被害想定の改訂が遅れていたことは、想定と対策の連携を示す悪例である。
住民側から見たとき、自治体の被害想定がいつ改訂されて、どういう災害対策が行われてているかに関心を払うことが重要である。地震発生に関する科学的な知見と社会構造の変化、地域の防災力を常に確認することは、自然災害の多い日本に暮らす市民の責務である。行政の防災計画では、必ずしもすべての対策を行政が行う、公助ではないことに注意する必要がある。共助と自助が対策の必須の要素として、被害想定と防災計画が作られていることも忘れてはならない。