超難問の噴火災害

特集:雲仙普賢岳噴火火災から30年

(一社)減災・復興支援機構 木村拓郎
2021年6月1日

 大学を卒業してから20年目の年に雲仙普賢岳噴火災害に関わることになった。この間、ずっと防災の仕事をしていたが、実は噴火災害についてはほとんど関心がなかった。理由は、災害の形態として無人に近い山の中の災害と思い込んでいたためである。その噴火災害に対する認識を大きく替えることになったのが雲仙の災害だった。
 私と雲仙の災害との関わりは、故廣井脩先生からアンケート調査を実施したいので現地に行って準備をして欲しい、という話があったときからである。大惨事から1週間後の島原に行ってみると、すでに1万人以上が避難を強いられていて、山奥の災害というよりごく普通の市街地型災害の様相を呈していた。行きがかり上、復興計画策定にも参画することになり、以来30年間、山腹に残ってしまった溶岩ドームの崩落対策のために今もこの災害とお付き合いしている。
●厄介な噴火災害
 雲仙・普賢岳噴火災害は1991年6月3日に43人の犠牲者を出したことで良く知られている。しかしながら噴火は、この大惨事が発生する約半年前の11月にすでに始まっていた。また、最初の土石流は半月前の5月15日に、高温の火砕流は最初の土石流から9日後の5月24日に確認されていた。大火砕流発生時には風下の地域に大量の降灰が降り注いだ。結局、火砕流が最後に観測されたのは1996年5月のことで、この間9千回以上の火砕流が観測された。当時の最大の問題は、火砕流の終息の時期が誰にも分からなかったことである。
 火砕流が日を追って拡大してきたことから自治体は1991年6月7日から災害対策基本法第63条を適用して「警戒区域」を設定、住民を強制的に避難させた。同年6月30日には大雨で大土石流が発生、無人と化していた集落が襲われた。このあとも土石流は大雨のたびに発生、回数は9年間で60回に上った。止むことのない火砕流と土石流によって被害は拡大の一途をたどった。
 このように噴火災害は、複数の現象が同時に、しかも長期間にわたって継続すること、また噴火活動の終息が予測できないことが特徴であろう。
●混迷した生活再建
 九州弁護士会は1992年に「わが国の災害対策に関する法制度が一過性の災害に対するものでしかなく、長期化災害に対してはほとんど無力である」と指摘し、長期化する避難生活を大問題として取り上げた。
 避難者の中には、自宅は被災していないが警戒区域の設定により帰宅できない人、また仕事(農業)もできず収入が途絶えてしまった人もいた。しかも避難解除の見通しがまったく立たなかったことから避難した人たちは生活再建の計画を立てられない状態に陥った。まさにそれまでの被災者という概念に当てはまらない人たちばかりだった。弁護士会の指摘どおり前例のない被災形態に対し従前の支援制度はまったく機能しなかった。そこで国は、画期的な制度として「雲仙岳災害対策基金」を創設した。この事業の目的は、強制避難に対する損失補償ではなく生活再建を支援することにあった。
 被災集落の復興でも住民の発意により土石流で被災した地盤のかさ上げ事業が成功した。
 この災害では、過去経験したことのない被災形態が出現したことから、きわめて難しい災害対応が求められた。雲仙の災害対応を振り返ると、この災害を契機に被災者支援が従来の応急救助という観点から一歩進んで「生活復興」という概念に変わり、広く社会に定着するようになったと思われる。雲仙で実施された諸々の施策は、その後の災害対応の手本になっているものが多く、その意味でこの災害は近年の災害対策の原点になっているといえる。
 
 今日、雲仙の教訓をもとに火山防災の避難対策の情報は大きくレベルアップしてきた。しかし、長期避難時の被災者支援については、多くの課題を残したままである。今後も低頻度でも雲仙と類似の形態で噴火災害が発生する可能性があり、それに備えた被災者支援対策の研究、法制度の整備が急がれる。