大森 VS 今村論争

連載:関東大震災100年・これからの100年 第4回

飯高隆
2022年9月1日

 
 地震の研究を行うものにとって、地震の予知・予測が可能になることは、大きな目標のひとつであろう。1923 年の関東地震で予測と言えば、真っ先に頭に浮かぶのは大森・今村論争であろう。地震学に少し触れた人であれば、大森・今村論争をご存知の方は多いのではないかと思われる。大森房吉は、当時東京帝国大学地震学教室の教授であった。その時今村明恒は同じ東京帝国大学地震学教室の助教授であり、歳の差はわずか2歳であった。小説で描かれるようなドラマチックな関東地震についての2人の論争は、今村明恒による雑誌「太陽」に掲載された記事に始まる。今村が1905 年(明治38 年)の雑誌「太陽」に掲載した記事は9 月号に掲載された。そこでは、過去に江戸で起こった被害地震について説明し、平均的に100 年に1回の割合で発生していること、慶安二年と元禄十六年の間は54 年で発生していることや、安政二年の地震から50 年を経過していることから震災予防について一日も猶予はないと警鐘を鳴らしている。また、今村は東京における地震の際に引き起こされる火災による災害をとりあげ、被害想定をおこなっている。この記事は、その時は大きな話題とならなかったが、年が明け東京二六新聞が、丙午年の都市の迷信にあわせてセンセーショナルに記事を掲載した。騒動は大きくならないように思えたが2 月に東京湾に大きな地震が発生し、東京湾近郊での被害もあり人々が大きな不安におちいった。そこに流言等も飛び交い大きな騒動になったと言われている。あまりに社会的に大きな騒動となってしまったため、上司である大森房吉は、その年の雑誌「太陽」の3 月号で、今村の説を根拠の薄い”浮説”であると説き,厳しい言葉で今村の説を否定し騒動を沈めた。そして1923 年に関東地震が発生するのである。1923 年の関東地震発生の前に大森房吉は、近々発生する関東地震を予見することなく、オーストラリアのメルボルンで開催された汎太平洋学術会議に出席した。会議後訪問したシドニーのリバービュー天文台で、目の前に置かれた地震計の針が大きく動くのを見て、それが東京近郊で発生した関東地震であることを知って愕然とする。帰りの船の中で、その時罹患した脳腫瘍が悪化し、病に伏せってしまう。その病に加え責任の大きさに苦しむ大森博士を横浜港まで足を運び出迎えたのが今村明恒であった。
 1905 年の今村の記事は、地震発生についての記述もさることながら、地震発生時の火災の危険性を大きく示している。1923 年の関東地震は、前日に九州に上陸した台風が日本海側に抜け、風の強い日であったこと、正午前の発生時刻で多くのお宅で昼食の準備で火を使っていたということが、大きな災害になった原因でもある。今村が懸念していた火事による被害が的中してしまったことになる。さまざまな要因が重なって発生した騒動であるが、その原因の一つに情報の伝え方がある。日ごろから地震災害に注意し火災による災害を含めて考えることは重要なことである。迷信にあわせた情報の発信や流言飛語の飛び交う環境など、その情報の発信の仕方ひとつでセンセーショナルな騒動に変わってしまう。災害の多い日本では情報の発信ということに十分注意を払いながら伝えることの重要性を教えてくれているように思われる。

【参考文献】
萩原尊礼,1982『地震学百年』,東京大学出版会
山下文男,2002『君子未然に防ぐ: 地震予知の先駆者今村明恒の生涯』,
東北大学出版会